仁保〜篠目

おいでませ
錦秋の
やまぐちへ

やまぐち号 2007ラストラン

11月22日(木) 晴れときどき曇り 
 今年の紅葉前線の足取りはゆっくりだった。
 例年より一週間、いや十日ほども遅れていただろうか。
 その遅れを取り戻そうとしてだろうか、ここしばらく一気に冷え込む日が続くようになってきた…。
 日本という国ほど、デリケートな四季の移ろいをみせてくれる国は他にない、といいます。
 Four Seasonsという言葉があるように、もちろん欧米にも四季というものはちゃんと存在しますが、それはどちらかといえば平板な、自然現象を説明する一単語にしか過ぎない(というのは少々言い過ぎかもしれませんが)ものであって、日本人が感じる四季ほど情緒性を帯びてはいません。
 春に花が咲き、夏に雷が鳴り、秋に葉が染まり、冬に雪が舞う…日本人はこうした四季の移ろいを、何時の頃からか歌に詠み、言葉に託してきました。日本人が季節というものを口にするとき、そこには本来の意味に加えて、さらに情緒的なものが加わっているように思えるのは私だけでしょうか?
 端的に言えば、春の霞、夏の雷鳴、秋の虫の音、そして冬の吹雪…多くの欧米人にとっては、ただ鬱陶しいもの、恐ろしいもの、あるいは耳障りなもの、としてしか捉えられないといいますが、日本人はそこに情緒を交えて、それを歌なり絵なりにしてしまう。日本には「紅葉狩り」という言葉がありますが、欧米人はこれを英訳(あるいは仏訳・独訳)するのに頭を痛めたそうです。感覚的に理解できないんだそうな…この違いはいったい何に起因しているのでしょうか。
 国民性の違い、という人がいます。私も以前はそう思っていましたが・・・じゃあ、その国民性って、何からできたの???
 結局のところ、その違いを作り出したのは、それぞれの自然の違いなのではないでしょうか。
 片や大陸の、おおらかに変化する自然と季節。片や、狭い島国ながらきめ細やかに移ろう自然と季節。
 年に二度のモンスーンと狭く急峻な地形、それらが作り出すデリケートな気象条件。
 決して身びいきでも絵空事でもなく、日本列島ほどデリケートな自然・気候をはぐくんでくる場所は、地球上には多くないというのは事実のようです。そして、それが日本人特有の感受性豊かな国民性を醸し出し、世界に冠たる文学をも生んだのではないかと…。世界に冠たる随筆「枕草子」が書かれた平安期、ヨーロッパなんてのはまだ世界のド田舎で、文学のカケラもない時代だったんですから。
 思うに日本人の幸福は、このデリケートな自然のゆりかごの中に数千年の間過ごすことができたことではないでしょうか。
 小説「日本沈没」(断っておきますが、何が起きてるかもわからない、あのしょ〜もない映画の方ではなく、小松左京の原作の方です)のラストで、田所博士と渡老人が語り合う言葉の深遠さというものが、よく理解できるような気がします。
 それだけに、近年繰り返される自然破壊のさまなどを聞くにつけ、慄然とした思いにとらわれるのですが…。
 今年の「やまぐち号」レギュラー運転日程も残すところ3日間。
 そのフィナーレを飾るように、山口線沿線、いつもの年より1週間ほど紅葉の見頃が遅れ、ラストランの頃が最高潮ではないかとの予想。
 天気予報は3日間とも晴れ。気温は例年よりやや低め…。
 一日早く、現地入りすることにしました。

羽田空港

 羽田7:30発JAL1643便。
 今日は汽車の運転はないんですから、こんなに早い便で行かなくともよさそうなものですが、せっかくの秋の一日、ただ行ってホテルにたどり着くだけではもったいない。
 聞けば、山口市内も紅葉が見頃とのこと。そういえば、山口線の撮影に出かけるようになって長いですが、津和野はもうそれこそ観光ガイドが務まる?ほどに歩いているんだけど、なぜか山口市内というのはほとんど歩いたことがありません。
 しかし、我らがC571が牽引する列車はSL「やまぐち」号と銘打っている通り、山口市内も第一級の観光地。見所が多く、さらには紅葉の名所も目白押し。元々、町のそぞろ歩きというのが大好きな私、せっかくの機会、山口市内を半日のんびり歩こうというわけです。奇しくも来年は山口ディスティネーション・キャンペーンの年。それを先取りする、というわけではありませんが。

新山口駅 9639D

 今日の1643便は平日ということもあってか、順調に飛び、山口宇部空港に5分早着。
 連絡バスで新山口駅在来線口に着くと、タッチの差で10:14発5621Dが出たばかり。
 ただ、今日は臨時の9639Dがあります。
 新山口発10:37。
 そう、実はこの9639D、「やまぐち号」9521レのスジをなぞるようにして、「やまぐち号」の運転がない日に走っている山口までの快速列車。
 実は夕方にも9638Dというのがあって、こちらは9522レのスジをなぞっています。
 平日の空きスジをうまく活用してるんですね。
 山口着10:54。
 駅に重装備を預け、コンデジ一台だけ持って身軽になって山口の町に歩き出しました。
 街路樹のイチョウはもう葉を落とし始めていました。

山口市内

 朝のうち晴れていた空、ここにきて、ちょっと厚い雲が上空に…。
 陽が射していた頃はポカポカの小春日和に思えたんですが、ちょっと陽が翳ると思いのほか寒いのに気づきます。
 今回、ちょっと厚めのトレーナーを着ているんですが、実は出発前は「こんなの着て行ったら暑いんじゃぁ?」と。でも先週撮影に行ったメンバーから「山の上は寒いよ〜、着てったほうがいいよ〜。」と言われて持ってきたんですが、山の上でなくて町の中でも、やっぱりこれを着ていてちょうどいいくらい。

一ノ坂川

 さて、どうやって歩きまわろうか…。
 行きたい場所はほぼ決まってる。コース取りの方法もいくらでもある。
 まあ、いっか。観光案内所でもらった地図を頼りに足の向くまま…。
 湯田温泉から通じる県道との交差点を右折、しばらく行くと小さな川を渡ります。ここが一ノ坂川。このちょっと先が源氏ボタルの名所となっていて、聞くところによると6月頃、乱舞するホタルの光を見ることができるそうな。
 とはいえ、よくよく見れば北側には国道バイパス、南側には県道、周囲は住宅地で、まさに町の真中といっても間違いではない…それでも、このような場所でホタルが生育しているということは、すごいことかもしれない。
 「数ある県庁所在地の中で、山口市はもっとも自然と調和した街」と言われるのもわかるような気がします。
 しばらく行って交差点を左折。
 静かな通りを進むと、ほどなく龍福寺への入口。小道を右に折れると山門に至る参道に出ます。ここが楓の名所と聞いていたので、最初に足を向ける気になったのですが…。

龍福寺参道

 晴れていればよかったのだけど、ちょうど雲が太陽を隠していた時間で、せっかくの楓並木もちょっと艶消し。それと…いくらか盛りを過ぎていたのかな。
 山口といえば、瑠璃光寺の五重塔、それに雪舟庭というのがまず思い浮かびます。もちろん私もそこに今回は行きたいのですが、山口の歴史を語る上では、この龍福寺はやはりまず最初に訪れるべき場所なのではないかと…。
 ここは、山口の始祖ともいうべき大内氏の館跡でもあるのです。
 山門には、右側の柱に「曹洞宗 龍福禅寺」、左側の柱に「大内義隆御菩提寺」と書かれています。

龍福寺山門

 というのも、この場所は現在の山口の町を築く礎となった場所。
 山口、というと多くの人は幕末もしくは戦国末期のイメージから真っ先に思い浮かべるのは毛利氏でしょう。もちろん毛利氏の存在は歴史上非常に大きく重いものですが、実は毛利氏が君臨する以前、この地を治めていたのは大内氏という大名でした。
 上の写真で、山門に懸かっている幕に染め抜かれているのは大内家の家紋「大内花菱」です。
 大内氏は、古くは周防を支配する守護大名だったと言われていますが、南北朝時代に入って長門国の守護であった厚東氏(山陽本線の難読駅名「厚東=ことう」はこれに由来する)を破って九州に追いやり、長門・周防二ヶ国を領する大名となりました。いわば、防長二国=今の山口県の領域を一手に支配したのは大内氏が最初だと言えるのではないでしょうか。
 この時、時の当主大内弘世は南朝方に属していましたが、あまりにも勢力を伸張したため北朝方にとっても侮りがたい存在となり、足利尊氏は防長二ヶ国の守護職を安堵することを条件に彼を北朝方に引き入れることになります。弘世はやがて上洛し、二代足利将軍義詮に謁することになりますが、これと相前後して本拠を山口に移しています。その時居館を構えたのが、この場所だったのです。
 よく山口は「西の京」と言われ、その名残で市内には「西京」と名を冠した場所や施設が数多くありますが(特に「西京高校」は有名ですね)、なぜ山口が「西の京」と呼ばれるようになったのか…。
 それは、大内弘世が本拠を山口に移した際、上洛して見た京の都の様子を見て取り、これを取り入れたものと思われます。この後、歴代大内氏はこの場所で政務を執りますが、中国地方はもとより九州の一部にまで勢力を伸張した大内氏の政治の中心ということは、西日本の政治の中心でもあったと言えるわけで、それにふさわしく京の都を模する、という姿勢を取ったのも当然であったかもしれません。
 その後、大内氏は家督相続による内紛や折から激しくなった戦乱の中も勢力伸長を続け、また応仁の乱以降、度重なる戦禍から逃れてきた京の人々によって京の文化も持ち込まれ、山口は名実ともに「西の京」となっていきました。
 31代当主に当たる大内義隆の頃には、周防・長門・石見・豊前・筑前・備後・安芸の七ヶ国の守護を兼ね、さらにはその地の利を活かして日明貿易を独占、その財力も傑出したものであったといいます。さらにはキリスト教を保護し、ザビエルに領内での布教を許したことも有名ですね。(ただし、義隆自身は入信していない)
 しかしこの時が大内氏の絶頂期で、義隆の晩年は軍事を顧みずに文化芸術のみに傾倒していくようになり、それが重臣の信を失って謀反を招来、重臣・陶晴賢(隆房)によって義隆は襲われ、ついには自刃。ここに大内家は滅亡することになります。
 その後、陶氏を厳島の合戦で破り、大内氏に代わって防長二国の権を握ったのがかの毛利元就でありました。

龍福寺境内

 現在の龍福寺は、毛利隆元が大内義隆を弔うために建立した寺で、実は大内氏の館跡はその下にある形になっていて、これまでなかなか発掘調査が捗らなかったそうですが、龍福寺本堂の解体修復に伴って発掘調査も進められているそうです。このため、本堂は今、解体工事のため大きな枠組みと青いシートに覆われていてしまっていました。境内には、大内氏の歴史を語るスピーカーの声が、楓の葉を揺らすようにして響き渡っていました…。

龍福寺

 大内氏はまさに京文化の西国への伝導者の役割を果たしていたわけですが、そういえば思い当たるのは、昨年夏に訪れた津和野の鷺舞。
 確か津和野の鷺舞も、津和野城主吉見氏が大内氏の息女を正室として迎えたことをきっかけに山口から津和野に伝えさせたものでした。つまり、さまざまな京文化のひとつとして、この頃は鷺舞も山口に残っていたはずですね
 龍福寺の横に回ると、こんな光景が…まだ空には厚い雲が行き来しています。

龍福寺にて

 龍福寺を後に、北へ足を向けます。
 なるほど京都にもあるような細い路地の間を抜けて大きな通りへ。
 時計の針は、もうすぐ正午。
 ここから少し歩けばもう瑠璃光寺なんですが、さてその前にお昼をどうしよう?
 瑠璃光寺は山口を代表する観光地ですから、当然近くには食事場所もあるはず。でも…団体の観光客などが来ていると食堂は混雑、ということも充分考えられるわけでして。

ネコ

 今日は平日だから大丈夫、というのは甘い考え。団体旅行客というのはむしろ平日の方が多いというのは、かつての添乗員時代からの経験でよ〜くわかってます。まして紅葉の時期。あまりせわしない思いして食事もしたくないし…。
 ここは、コンビニで簡単に買い込んで、瑠璃光寺でのんびり食べようということにしました。オニギリ3つにお茶を一本。(^^;
 コンデジはポケットに入ってるし、手に持っているのは小さなコンビニ袋。観光客というよりも、どう見てもそこらのオッサンといういでたちでお店を出ると、入り口にいた猫が私を見上げて、「あんだ、オメ〜?」(^^;;;
 9号線のバイパスを地下道でくぐり、ちょっと南へ戻って、山側に分かれる道をゆるく登っていきます。
 その道を突き当たったような場所(曲がっているんだけど)にあるのが洞春寺。
 ここは、大内氏に代わってこの地を治めたかの毛利元就の菩提寺。

洞春寺

 本堂は江戸時代に焼失したそうですが、この山門は室町時代の様式そのままに残されているといいます。
 そういえば…NHKの大河ドラマで「毛利元就」が放映されていたのは何年前でしたっけ。あの時、「やまぐち号」を牽引するC571は「三本の矢」のヘッドマークをつけてましたね。

洞春寺

 洞春寺を過ぎてしばらく歩くと、そこが瑠璃光寺。
 その境内はやはり、広いですね。
 ちょうど雲の間から陽が漏れてきて…。

瑠璃光寺

 すぐ目の前に、池を挟んで有名な五重塔が。
 お約束の絵葉書カットを一枚。(^^ゞ
 「やまぐち号」のテールマークですよ〜♪

瑠璃光寺五重塔

 ちょうどタイミングよく、見学していたであろう団体観光客がゾロゾロとバス駐車場へ戻ろうとしていた時で、五重塔を映す池の周囲は人影が途絶えて静かになっていました。
 池の回りにあるいくつかのベンチのうちの一つに腰掛けて、ゆっくり五重塔を見ながらお昼ご飯をいただくことに。
 ポカポカと暖かい陽射し。人が絶えて、つかの間の静けさを取り戻した境内。
 ベンチに腰掛けて五重塔を見上げていると、なんとなく安らいだ気分に…。
 本当に静かだ…町の喧騒が全然聞こえてこない。
 ほど遠からぬ場所に国道があり、多くのクルマが行き来してるはずなのに。
 時折思い出したようにその静寂を破って、池の前に配置されたスピーカーから、この五重塔の由来を説明した案内テープが流れてきます。ちょっと耳を傾けると…。
 山口を「西の京」とした大内氏中興の祖、大内弘世の子、義弘は戦功を重ね勢力を弘世の代よりもさらに伸長させます。しかし、好事魔多しというべきか、足利将軍家のお家騒動に端を発した権力争いに加わり、ついには泉州堺(義弘は和泉の守護にも任じられていた)にて幕府に叛旗を翻します(応永の乱)が、幕府軍に攻められて滅び去ります。大内氏の家督は弟の盛見が継ぎましたが、その盛見が兄:義弘の菩提を弔って建立を始めたのがこの五重塔。しかし、盛見自身も打ち続く戦乱の中で討ち死に、五重塔の完成は彼の死後でした。

瑠璃光寺五重塔

 さて、この今五重塔が立っている場所は、元々大内義弘が香積寺という寺を建立した場所(だからこそ、盛見が塔を建てたのですが)で、当然ながら元々は「香積寺五重塔」だったわけですが、江戸時代に入り、山口が毛利氏の支配下となったあと、毛利輝元が本城を萩に移す際に、香積寺も萩に移されてしまいました。(といえば聞こえはいいですが、解体して萩城内の館の資材に使っちゃったんですね)
 その際、五重塔も移築されてしまうところだったのですが、当時の地元の人々の願いにより、移築されずにこの地に残ったのだそうです。

瑠璃光寺五重塔

 ところで、じゃあ瑠璃光寺という名前は?ということになりますが、元々瑠璃光寺というのは仁保(!)にあった陶氏の菩提寺。それを、香積寺を引寺した跡地に輝元が移転させたのが今の瑠璃光寺、ということなんですね。
 で…思い返してみると、陶氏というのは、かの大内義隆を謀反によって自刃に追い込んだ、いわば大内一族にとっては仇である存在。それが奇しくもその菩提寺の境内に大内義弘の菩提を弔う五重塔を戴いているというのは…なんとも不思議な運命ではあります。
 五百年の時を超え、その事情を知ってか知らずか、五重塔は晩秋の風を受けて静かに佇んでいました。

瑠璃光寺五重塔

大内弘世像

 瑠璃光寺境内には大内弘世の像。
 650年の時を経て、己が子孫を討った一族の菩提寺に、我が子の菩提を弔う塔が静かに佇むのを見て何を思っているのか…。
 「すべては戦国の世の常じゃ」
 とでも言っているかもしれませんね。
 
 戦が絶え、平和の中に憩う山口の町。
 弘世の目は、その山口の町の方角をじっと見つめているように見えます。
 自らが礎を築いた町の繁栄を心静かに見下ろしているようです…。
 さて、瑠璃光寺に隣接する形で、大内氏に代わって山口の主となった毛利家の墓所があります。
 境内の南隣、やや小高い丘になっているところ。
 「香山公園」と呼ばれています。
 瑠璃光寺境内から続くゆるい坂を登ると、少し開けた場所に出ますが、そこから右手に幅の広い石段が伸びていて、その上が毛利家の墓所。
 このあたりは広い石畳になっていますが、ふと目の前の案内書きを見ると「うぐいす張りの石畳」と書いてあります。ハテ?

うぐいす張りの石畳

 「このあたりで手を叩いたり強い足踏みをすると、その音が右手の石段からうぐいすの鳴き声のようになって反響してきます」と書かれているんですが…。
 さっそくやってみました。
 パン!パン!
 と拍手?と叩いて見ると…
 なるほど、右手の石段のほうから「キュッ、キュッ」という音が。
 「うぐいす張り」って言っても、あの京都の二条城(関東の皆さんは修学旅行で体験してますよね〜)みたいな「ピヨピヨ」いうカワイイ音ではなくて、どちらかというとアヒルの鳴き声に近いように聞こえるんだけど、それにしても不思議。なんでも人為的に造ったものではなく、できてみたらこんな音がするようになっていた、ということなんですが。
 でも、なんだか面白くなって、何度も足踏みしたり手を叩いたりして遊んでしまいました。(^^ゞ
 石段を登ると、そこは毛利家の墓所。

毛利家墓所

 大内氏に代わってこの地に君臨した毛利一族。
 毛利氏は、鎌倉幕府草創の功臣大江広元の四男季光が毛利姓を名乗ったことから始まっていると言われていますが、大内義隆が全盛を誇った頃がちょうどかの毛利元就の代。このあたりはNHKの大河ドラマご覧になった方はよくご存知と思いますが…。(^^;
 わが弟を手にかけて当主の座を得た元就は、自家の安泰のため、大内氏の傘下に入ります。やがて陶晴賢の謀反によって大内義隆が滅ぼされますが、この時晴賢は豊後から義隆の甥であった大友晴英を呼び寄せて「義長」と名を変えさせて大内家を継がせ、自らは実権を握っていました。しかし数年後、厳島の戦いで元就は陶晴賢を破り、彼の傀儡として担ぎ出されていた義長をも滅ぼし、大内氏の領していた広大な版図は毛利氏のものとなったのです。
 どことなく、織田信長を討った明智光秀を破った羽柴秀吉とイメージがダブるような気もしますが…もっとも、秀吉の場合は短時日でしたが。
 安芸を本拠に、中国地方に巨大な版図を広げた毛利氏でしたが、元就の後は、彼の遺訓と言われる「天下を望まず版図を守れ」という言葉が裏目に出たのか…激動する戦国の情勢に次第に遅れを取っていくことになります。元就の遺訓は平和な時代にあっては大きな意味をなしたでしょうが、まだ天下の趨勢も定まっていない戦国の混沌の中では、消極的な姿勢を自家に残してしまったかもしれません。ちなみに、有名な「三本の矢」の薫陶の逸話は後年の人の創作であったろうと言われています。
 時は流れ、孫の輝元の時代、関ヶ原合戦の折になんとも日和見的な姿勢をとったことが祟って、毛利家は防長二ヶ国に押し込められてしまうことになります。結果的に家康にコロリとだまされた格好。
 もしも…あの関ヶ原の折、西軍の総大将とでも言うべき毛利輝元が大坂城を出て自ら戦場に姿を現していたら、果たして小早川秀秋の裏切りがあったかどうか。そして南宮山に陣した毛利勢が一気に山を下って桃配山の家康本陣を衝いていたら。毛利家は天下の権を望むこともできたでしょう…。もっとも毛利輝元が大坂城を出てくるとなれば、家康は関ヶ原に軍を進めなかったかもしれませんが、少なくともああまでもろく西軍が自壊することはなかったでしょう。
 もっとも徳川家康はそれを恐れたからこそ、吉川広家を通じて輝元を調略していたのであり、それが家康の凄さでもあるんですが…。
 しかし輝元が取った姿勢の背景にあったのは、元就の遺訓に代表される戦国毛利家の守勢的な性格にあったのではないかと想像されます。
 輝元は百三十万石を防長二国の三十六万石に減封され、さすがに「騙された…」と思ったという逸話が残っていますが、やはり戦国の将としては人が良すぎたかな、という気もしないでもありません。
 その時の悔しさ、怨念が二百数十年後の倒幕のエネルギーになったのでしょうか。戦国の世には望めなかった日本の権を、長州は薩摩とともに握ることとなります。
 余談が過ぎました。
 毛利家の墓所というのは、山口県内に四箇所(三箇所は萩に、残る一箇所がここに)ありますが、ここでいう毛利家というのは江戸幕藩体制になった後の長州藩主毛利家を指します。ここにあるのは倒幕時に当主であった毛利敬親とその子元徳、孫元昭とそれぞれの夫人の墓、それに加えて毛利本家歴代諸霊之墓の計七基。

毛利敬親墓

 見てわかる通り、土饅頭の前に墓碑を立てる形式ですが、萩に他の三つの墓所の墓の形式が五輪塔・笠塔婆であるのと大きく形を異にしています。
 関ヶ原戦後、防長三十六万石に減封された毛利輝元は、長州藩の本拠を山口もしくは防府に置くことを江戸幕府に嘆願しますが、幕府はこれを拒否。もっとも交通の便が悪い萩に本城を置くように命じます。
 山口から萩に本拠を移した輝元は、失意のうちに隠居、その子の秀就が萩初代藩主となります。以後二百数十年の間、長州藩は萩を本拠としますが、幕末に至り、十三代当主敬親の時、幕府の命に逆らって藩庁を山口に戻します。
 さて毛利家、あるいは長州というと、あたかも一大名が支配していたような錯覚を受けますが、実際には萩にあった長州本藩を中心に毛利一族による親藩がいくつか寄り集まった「連合王国」というのが実態であったと言われています。本藩の他に長府藩、徳山藩が存在し、互いに萩の本家と結びつき、さらには領内に分家が多数存在しました。私がこの夏に訪れた厚狭にも「厚狭毛利家」というのがあって、その墓所もあります。
 毛利元就のもうけた9人の子供達はそれぞれに家系を継ぎ、「毛利」の姓を名乗っていますが、普通、それだけの大所帯となれば、一門内部での抗争が絶えず、本家分家の争いが陽に陰に絶えないのが普通ですが、毛利家の不思議さは、三百年間の間、一族の間で目立った争いがなく、一門が結束していたことでした。
 それが倒幕を起こす際の経済的なバックボーンにもなったとも言われています。
 毛利元就の残した遺訓は、関ヶ原の際には裏目に出たような形になりましたが、一族の結束を保ち、後の倒幕に繋がったことを思えば非常に大きな意味を持っていたと言えるかもしれません。
 「三本の矢」の逸話は、いつ誰が創作したかはわかりませんが、幕末に至る毛利一門の長い間の結束を考えるとき、まことに当を得た逸話であったと思わざるを得ません。

 墓所からの石段を下りる登る途中、ふと見上げると紅葉を透かして薄日が差し込んできました。どこかで鳥のさえずりが…。
 さらに歩を進めると倒幕の密議が練られたという露山堂、沈流亭があります。(写真撮ったんですが、なぜか思い切りブレていてお目にかけられるシロモノではありません。(^^; )
 幕末、倒幕の烽火を最初に上げたのは紛れもなく長州でした。
 のちに倒幕に加わる薩摩は、当初は佐幕側で会津藩とくっついており、むしろ長州とは仇敵同士の関係でした。それを仲介したのは土佐の坂本龍馬でしたが…。
 …いかんいかん!幕末のことになると、私、好きなだけに話が止まらなくなります。絵日記終わらなくなっちゃいますから、別の機会に譲ってこの辺にしておきましょう。(^^;

香山公園の楓

 燃えるような楓の下で、赤い光に染まった腕時計を見ると、もうここに着てから1時間が経っていました。
 そろそろ腰を上げるとしましょう。